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2011年3月31日 (木)

なじょして福島・サムライス!・ART AID

今日はビジネスメディア誠で連載する“うふふマーケティング”と誠ブログへのリードと四方山話です。

郷好文の“うふふ”マーケティング:なじょして福島のビジネス、再興すっか
東北関東大震災から3週間。宮城県や岩手県などでは被害の底が見えてきたが、原発事故の影響で福島県はまだ見通しがまったくつかない状況だ。福島県を復興するにはどうすればいいのか。中小企業診断士でもある筆者がアイデアを考えてみた。続きはこちら

今回の連載のきっかけは、もちろん福島県の原発からの放射能。大爆発の危機は去ったかに見えるが、その処理には数年いや数十年かかるとは絶句。とりあえず封じ込めても、風評被害があれば、害はなくても農業も林業も漁業もできなくなる。福島を愛する福島っ子の気持ち、推して知ることもできない。痛い気持ちに何とか応えたいと思う。

四角四面の中小企業診断士なんてクソくらえ。もっとファンタジー溢れる発想をします。東京の企業と地元資源や切実なニーズをリンクして、プロジェクトを起こします。落ち込んだ人がいればケシカケますよ。ことばの支援ももちろん。そう思いながら書きました。

落ち着いたら、原発の意思決定をした時の政府、電力会社、地元誘致者の責任を問うべきだとお思う(存命であれば)。何しろツケ(国家債務)はまた国民が背負うのだ。責任は取ってほしい。

そもそも制御できないものに、なぜライフラインを賭けることができるのか?どんな経済原理や政治原理があるのか?日本や世界を危機に晒した原発に、企業はどんな便益を求めるのか?良心ある政治家は、原発推進派を論破して、クリーンエネルギー国家に変貌させる国づくりをしてほしい。

それはぜひ福島県で始めてほしい。せめてもの償いである。

【サムライス!】
今日はもう一本オマケを書いた。テーマは「サムライス!



サムライスって何?っていうのは読んでください。
文中に登場頂いた書家の平田美記さんに「書きました〜♪」とメールを打つと「流行るかも知れませんね」と返信あり。ふむ、と思って「サムライスってどんなの?」と料理研究家のcherryさんに「作ってよ」と頼んだ。するとー

「ちょんまげ形のご飯を海苔で巻くとか」

なあるほど!それいいかも。サムライスを作って食べて「ニッポンの復興のシンボル」にしよう!これも被災地支援のひとつ(たぶんね笑)。

【ART AID】
ぼくのもうひとつの顔、アート事業をやる身として、被災地支援のイベントを企画しました。“アートエイド/ART AID”では5月にクリエイター作品販売と義援金の寄付、そして6月以降に東北地方のクリエイターにギャラリーを無料開放します。

詳しくはこちら。読んで頂き、どうもありがとうございます。

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コメント

何事につけても新しがり屋の日本人が、時代遅れの精神生活を送っているのはどうしたわけか。

日本人には、意思がない。だが、恣意がある。
だから、意思を恣意と間違って解釈することになる。
すると、以下のようなことが起こる。

西洋文化の輸入も、意思がなければ支障をきたす。
意思の自由は考えられるが、恣意の自由は考えられない。
恣意の自由は、<自由のはき違え> となり、自由主義の普及も難しい。
意思は自由主義・個人主義の友人であり、恣意は利己主義は不自由主義の友人である。
不自由を常と思えば不足なしか。

政治指導者の意思決定はなく、その恣意決定は受け入れない。
意思の表明は成り立つが、恣意の表明は成り立たない。
日本人の声明発表はうつろに響く。その形式的な声明には、実行の意思がないからである。
そして、きれい事というか、空理空論には現実対応策が欠落している。ああ、むなしい。

意思があれば、罪もある。
殺意があれば、殺人罪である。
殺意がなければ、たとえ人は死んでも、死刑執行人は罪に問われることはない。

日本人には意思がない。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。

意思薄弱とも思える日本人の社会では、意思を確かめることは難しい。
人々は個人の意思を確かめるこなく、個人の恣意に関する察しに専念する。  
察しにたけた人物は、思いやりの深い人間として信頼されている。
だから、裁判員になることについて、日本人には多大な精神的抵抗がある。
罪の意識のない社会では、人々は罪を裁くことを望まない。<責任者を出すな> と叫ぶ。

日本人には、意思 (will) はないが、恣意 (self-will) がある。
成案はないが、腹案がある。
意思・成案を表すのには、文章が必要である。相手がその矛盾を指摘することもできる。
だが、恣意 (私意・我儘・身勝手)・腹案には、文章は必要ない。
恣意的な人間は、言語に不自由をしている子供・アニマル同然である。大和魂の持ち主のようなものか。ど根性か。

日本人が子供に見えるのはこの時である。
周囲のものが指導者の意思を察するのである。ただ意向というか、はっきりしないものを察するのである。
政治家と公設秘書のようなものか。一致団結して阿吽の呼吸でやる。
俺の目をみろ 何んにもいうな 男同志の 腹のうち。腹案がある。共謀関係の立証は難しい。
察しは他人の勝手な解釈であって、いざ罪のありかを定める議論になれば、それでは証拠不十分となる。
意思の存在を認めることのない社会で、意思の有無を確認することは難しい。

腹案の内容は、腹を割って見せなくては知られない。隠ぺい体質の産物である。
それには談合が必要である。小言、独り言の類が語られる。
内容は、決して公言・宣言としては表明されることはない。

恣意を文章にすることは、英米人はやらない。
理性を失うことは、恥ずかしいことだからである。
やれば、周りの者から嘲笑される。
彼らは、'Shame on you!' (恥を知れ) と言って、相手をしかりつける。
だが、これを日本人はやる。この種の恥は、日本人にはない。
これを '本心をさらけ出す' と言い、内々で甘えさせてもらうのである。
相手は、'真意は何か' と尋ねる。
この行為が英米人の日本人に関する不思議である。

恣意的な人間は、滅私奉公により調教された。わが国の伝統的な人間教育は、序列人間を作ることである。
意思を認めることのない社会での責任者探しは難しい。無責任な社会では、それ特有の犠牲者を出さなくてはならない。
だから、日本人は恣意の理不尽に耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで生活する必要があると教えられている。

意思があれば、その内容も明らかにすることができる。
意思の内容に賛同して、協力者も現れる。
恣意であれば、その内容も明らかにすることがでない。
恣意は誰もが嫌うので、協力者が現れることもない。
日本人は、戦争のときでさえ、絶対的な権力者を作ることはなかった。

文章が無くては、議論は始まらない。
無理が通れば、道理が引っ込む。だから、問答無用である。
上下関係で決着をつける勝負の世界である。猿山のサルと同じかな。
自分の(恣)意のままにならぬ相手を切って捨てるところが恐ろしい。

世俗的なものの上下を知らなければ、礼儀正しい日本人になることも難しい。
日本人の礼儀作法は、序列差法だからである。序列なきところに礼儀なし。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

投稿: noga | 2011年4月 2日 (土) 10時13分

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