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2011年9月11日 (日)

気仙沼の千田満穂さんのこと。

今日は日本の3.11から6ヶ月目、米国の9.11から10年を迎えた日。黙祷された人もいるだろう。ぼくは2時46分を過ぎちまった時刻に、自分の意見を言おう、自分に素直な生き方を貫こう、自分らしい表現をしようと思った。北を向いて合掌。



ちょうど昨日届いた『プリバリ印』(JAGAT発行)2011年9月号のぼくの連載は「復興への底力―気仙沼にベイブリッジを架けた折り込みマップ」である。ちょっと長いが冒頭の数節を引用しよう。

部外者がそんな“もらい”の悲嘆に暮れているあいだにも、『新たな未来へ。復興 わがまち気仙沼』とタイトルを付けたマップ(A1サイズ)を作成し、復興を早期に現実にしようとする人がいる。
気仙沼商工会議所の副会頭でもあり、気仙沼・盛岡・宮城の3社の三菱自動車販売株式会社社長を兼任する千田満穂さんである。
「この震災があったからつくったわけではないんです。お世話になった気仙沼をこうしたいと、ずっと言い続けてきたんです」引用元=プリバリイン2011年9月号

千田さんは11年前の2000年7月、『気仙沼イラストマップ』を制作し、地元の新聞に折り込んで配布した。そこには「気仙沼市がこうなったらいいな」という想いが描かれている。



気仙沼ベイブリッジ:北から南へ、気仙沼湾に吊り橋を架けて石巻市、仙台市へ南下する45号線へつなぐ。
大島大橋:本土と気仙沼大島を結び、大島の観光資源(亀山や休暇村)を振興する。
ヨットハーバーやマリンレジャー基地:養殖漁場を再編する。
気仙沼中央駅:市役所のビルと市への中心部活性化の拠点。

千田さんはなぜこれを制作したのか。それは苦労して事業家に育ててくれた気仙沼への恩返し。11年前のアイデアは氷の水族館や大橋(計画)など幾つも実現している。だがそこに3.11の地震と津波が押し寄せた。

津波で市内は23m浸水し、石油タンクは大火災を起こし、大島は津波で3分割された。1,500名の死者行方不明者を出し、千田さんのディーラー店も3店が流され、フランチャイズ経営していた宮脇書店も壊滅した。損害は3億円以上だという。

宮脇書店は1330平方メートルの店舗面積を誇る市内の中心商業施設だった。従業員は13名いたが全員解雇した。だが千田さんは自分の満期保険金1,000万円を従業員の給料や退職金にあてた。

彼は失意に沈むどころか、地図を新たにつくり直した。



基本アイデアは2000年版だが、新たに石油備蓄タンクを地下へ移したり、打ち上げられた漁船をモニュメントにし、市内各所に20m以上の建物を建てて、もしもの津波の時の避難場所に するアイデアを加えた。どちらもアートディレクター土橋征史さん(仙台在住)とホテルにカン詰で描いた。災害を前後して、国交省から何度か呼ばれて、気仙 沼市の開発で意見も求められてきた。震災後、国交省から発表された復興計画では、ベイブリッジは彼の構想通りになっていた。

連載ではこんなことを書いた(一部書いていないこともある)。あとはこぼれ話。

ぼ くは千田さんのことを5月末頃、中日新聞の地方版で知り、すぐにコンタクトをとって「コメントをもらえませんか」とFAXでお願いした。その時は「地図を 描いた人」で「商工会議所の副会頭」ということしか知らなかった。すぐに電話を頂いて「数日後東京に行きますが、お会いできますか?」と言われた。約束の 日、田町の三菱自動車本社1Fでお会いして、初めて自動車のディーラーを何店も所有する人だと知った。本社会議で来京していたのだ。記者として間抜けであ る。

調べれば調べるほど懐の深い方だとわかった。日経や大手新聞にもたくさん取材されていた。会えて幸運だった。あれだけの大災難を経験されたのに、やさしくて力強かった。去り際、「ぜひ気仙沼に来てくださいね」と言われてまだ果たしていない。いつかいかないとと思いながら、見本誌を一部、明日送る。

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