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2011年10月17日 (月)

森敦『月山』を読んで。

読めども読めども分け入れない小説、それが森敦著『月山・鳥海山』である。奥付は1979年だから、ぼくの初読は二十歳くらい。たぶん<芥川賞受賞作くらい読もう>で読み飛ばしたんだろう。ハタチの子供にわかる本じゃない。フクロウのようにやぶにらみの年にならんとわからんよ。

いや、今再読したぼくもまだ「わかったフリをしている」だけかも知れない。ひとりの男<わたし>が、月山の麓のうらぶれた寺に居候するこの話は、何かが起きるようで何も起きない。解説(小島信夫)から引用しよう。

「月山」の中で、全体(或は部分ともいえるが)というのは、その地形の動きであったり四季のうつりかわりであったり、吹雪であったり、紅葉であったり、地獄の ように見える夕焼けであったりする。そこに出入りするカラス(ドブロク買い=村は密造をしている)や乞食(行商人)や、富山(薬売り)や、燕や小川のせせ らぎや、遠くに見えるバスの関わる世界であったりする。引用元=同著(P.346)

寺に迷いこん だ<わたし>は、寒さ除けに祈祷簿でつくった蚊帳にこもり、寺のジサマと終わらない語りを続け、外に出ると「吹き」(吹雪)が視界を遮るほど続く。やがて どんよりと春がやってくる。雪が解け、行き倒れた行者のミイラ石があらわになる。こんな話が延々と続く。まるで標高1984mの月山の麓で雲をつかむよう な話である。

どうやら寺のジサマもやってくるバサマも、他の村の衆も、蚊帳に入った後家も、生と死の境目をゆききする見せかけのような存在 なのである。終わりの方にカメムシの話がある。鉢の底に落ちたカメムシが、必死に鉢のフチまで上ろうとする。落ちる。また登る。また落ちる。何度目かでフ チまで付いて、羽根を開いて飛び立つ。「何も縁まで這い上がることはない」と<わたし>は笑うが、自分(人間)は這い上がってどこにゆくのだろうか?行く場所がないと思って空恐ろしくなる。

月山だけではない。

次章の『天沼』では<わたし>が蓑とカンジキを借り、吹く山を歩き出す。するとだれかの足音がやって来る。村のジサマである。「この寒さにけえしきみ(景色 見)かね。木小屋まで行くさけ。おらと一緒に来っかの」と言われて付いてゆく。ふたりはザック、ザックと歩き出し、終わるともない喋りをしだす。だがいく ら歩いても歩いてもどこにも着かないのだ。

小島氏が「この本は分析を拒否するところがある」と書くように、この本は感想を受け付けない本である。なぜだろうか?ひとつ気づいた。

この本は、月山そのものなのである。

頂きも麓も、生も死も、人も自然もあいまいなものとして、すべてを受け入れる月山。その山の構造を、小説という文章世界にのりうつらせた。月山という存在自体が物語なのだ。だから読めども読めども分け入れない。この本は数世紀残る。文の深みを知ってしまった。

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