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2012年1月19日 (木)

数歩遅れの読書術『人間の集団について ベトナムから考える』

ベトナムにちなんだ読書を集中的にしているのですが、当面の仕上げの一冊はこれです。



司馬遼太郎ファンなら“司馬史観”という言葉は知っている。さしたるファンじゃないぼくでも『坂の上の雲』の意味は、日本軍隊はしょせん「坂の上の雲をつかむようなこと」、つかめない虚しさを追っていた、というのは知っていた。この『人間の集団について』は司馬史観の集大成の本である。

時は1973年4月、アメリカ軍がベトナムより撤兵した後。とはいえ戦時下のごとく南北はにらみあいがある。ベトコンのゲリラをどこかのどかに警戒するサイゴン、サデク、フエなどの町を訪れ、見て聞いて感じたことを新聞に連載した。それをまとめた本である。

ベトナム人はひとりひとりは、ほんとに人なつこい。数人たむろして談笑する顔をうかがうと、戦時下なんてことを忘れさせる。だがひとたび人間の集団となると違う。第二次世界大戦の日本や、その後の米・仏・ソ連など、集団の愚かさが何十年にも渡り豊かなベトナムの地をおかした。司馬氏はこう書く。

集団のもつ正義が強烈であればあるほど人間は「食べて、寝て、愛する」という素朴な幸福から遠ざかる。(同書=22ページ)

素朴な幸福を奪ったベトナム戦争とは、いったいナニを争ったのか?「共産主義対民主主義」というイデオロギー対決って何だったのか?

考えてみるとマコトによくわらかない。司馬氏は「国家威信」とは“圧搾空気”で持ち上がった自己催眠にすぎないと言う。日本の軍国主義は圧搾空気だった。アメリカの正義感も同じ。もちろんナチスも狂信的な圧搾エアだった。争いの素はみんな雲みたいなものかもしれない。

もうひとつ問いかけ。集団が信奉する正義とは何か?司馬氏は幾つか展開をしているが、そのうちのひとつ。「敵」の存在でつくられるもの、という。

人間の集団というのは、多くの場合、敵によって成立している。敵を持ってしまった集団というのは、じつは敵によって集団の理性と感情を作らされてゆく。195

卓見である。敵がいるから味方がいる。悪漢がいて正義がある。国対国に限らず、会社対会社、組織対組織、個人対個人も同じ。敵だと想わなければ敵は存在しないのかもしれない。集団とはなんて罪深いのか。だが、欧米の空気に乗ってしまったベトナム人への苦言も痛い。

大国(米、仏、ソ連)はたしかによくない。
しかしそれ以上によくないのは、こういう環境に自分を追い込んでしまったベトナム人自身であるということを世界中の人類が、人類の名においてかれらに鞭を打たなければどうしようもない。17

苦 言もあれば優しさもある。ベトナムの旨い料理、憎めないベトナム人、親切なベトナム人。ベトナムが好きで住みついた日本人たちも描きながら、司馬氏の社会 観察、人間観察はどこまでも鋭い。この本はイデオロギーの本ではない。歴史的な視点、地球人類的な観点から、闘争のバカさかげんを描いた一級のエッセイで ある。

だからベトナムは今後どうなるのか?と司馬氏は想いをはせる。

後進国の多くは共産主義という一種の鎖国をとって国を発展させる。国民の欲望を管理しつつ、国の産業化をすすめる。アメリカはアメリカンドリームという欲望の刺激と自由競争によって国をつくった。日本は明治期に国家管理の資本主義により国をつくった。

ではベトナムはどうなのか?こういう段階の国に日本が先進生産システムを提供したり、欧米が資本を投下しても、未熟な経済社会を混乱させるだけだと言う。戦争後共産主義にうつり、多くの難民を出しながらも徐々に資本主義化へ進んだのは、この国らしかったのかもしれない。

ひるがえっていまの日本。国民の70%が農民だった大正時代には“社会での競争心”など、一握りの貴族だけのものだった。ところが90年後、一億総中流となり、競争やヒステリーやうつに悩まされている。我々の集団的幻想は果たして正しかったのか?

自分のペースで工業化を進める国の方が正しいような気もした。

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