ジコマンとタコマン
写真は最もお手軽にできるアート。ぼくもあなたも君たちも日々楽しんでいるでしょう。実家に立ち寄ったときの『互い違いの猫たち』。不思議なやつらだ。
今夜、ギャラリーを後にして、門が閉じられた柳森神社をのぞいた。そこに鎮守猫がいた。猫は狸さま(石像)とじっと相対していた。何をお願いしたのだろう。題して『夜の神社動物園』(笑)。ピントが合っていればベストショットだったな。
ぼくの写真は酒井敦司さんのとちがって、まさにジコマン。何でもない猫の姿態をパチリしただけ。それを「スゲーだろ」「Likeしてよ」とFacebookで楽しむんだから、ジコマンもいいいところですよね。
ジコマンとは自分の満足であって、タコマン、他人の満足ではないのだろうか?
もちろんタコマン、「他己満足」なんて言葉はない。他人にも認められて満足するという造語ですから。ジコマンも褒めればツケあがり、才能が開花する(こともある)。シンガー エイミー・ワインハウスは「あなたの歌がもっと聴きたい」と言われて歌い出した。ジコマンが嵩じてタコマンになったわけ。
だが安直にタコマンをめざすと、ワナが待ち受けている。
「ア ドバイスをもらう」「市場ニーズを知る」「誰かのために歌う/描く/撮る」という姿勢がタコマンである。もちろんこれらは必要なこと。だがそこを突き詰め れば詰めるほど、自分のフォームが乱れる。有望なルーキーがコーチされて「らしらを無くす」あれである。自然体でなくなる。その結果、つまらなくなる。止 めてしまう。
そのワナに入らないようにするにはどうするか。2つ方法がある。ひとつは「ジコマンの正体を知る」。
もう一枚、今夜の猫写真。ぼくの写真から滲み出るのは「変だな」「奇妙だ」「不思議だ」である。
「カワイイ」もなければ「愛らしい」もない。ぼくの持ち味は「違和感を撮る」にある。たぶんライティングもそれが出ている。まっすぐ素直じゃないけれど、突き詰めてゆく求道スタイルというか。自分のジコマンの正体を知ろうじゃないか。
もうひとつは「ジコマンを自分で育てよう」
ジコマンとは「できた!」という“コツン”という音が聴こえること。聴こえたら、次にはコツンのレベルを上げよう。良い音だろうか?はっきり聴こえるだろうか?次はそれを広げよう。ちがう要素やテイストを入れても、ジコマンできるだろうか?
ジコマン嵩じればタコマンに通じる。ジコマンこそタコマンのカギを握っている。
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