« 忘れ物の一生 | トップページ | 光浦靖子の手づくりをチクチク分析する »

2012年7月 8日 (日)

私の中のあれを探して

木漏れ日が清々しい有栖川公園の都立図書館に行った。白洲正子全集を読むためだ。

いつかライアル・ワトソン と対談した時、明治時代に日本人が、ゴッドを神と訳したのは失敗だった、と指摘された。カミはカミで押し通した方がよかったのではないか、何だかわけのわ からぬものだと知れば、外国人もそれなりに納得したに違いない、と。引用元=白洲正子全集14巻

エッセイ『私の中のあれ』は“あれ”をめぐる随想である。

あれとはなんだろう?白洲正子女史が挙げるのは、木漏れ日の中の一輪のりんどう、夢殿の観音様、そして富士山の崇高な姿。ひとことで言えば、日本人の「胸のここ」にいる神さまである。

白洲正子といえば、ぼくのイメージは白洲次郎の妻である。英国帰りのジェントルマン、ノブレス・オブリージュ(高貴ゆえに徳高く振る舞え)、戦中の鶴川村へ の先駆的な隠遁、吉田茂の懐刀。彼は変わらぬぼくのヒーローだが、その妻には陶芸好き、エッセイストという知識しかなかった。初めて彼女の文に接して純粋 さに息をのんだ。



彼女を読んでみたらと言ってくれたのは、神社作家瑠璃白さん。そのワトソンとの対談もいい(別巻に所載)。彼女が開いていた銀座の店『こうげい』も気になった。画像はその時のものだ。

さてぼくの「あれ」はどこにあるのだろう?

風景から感じる「あれ」といえば、雑司ヶ谷の実家近くの路地、小学生時分通った銭湯の縁側の向こうの庭、初めて見た荒々しい日本海、函館の外人墓地…などが思い出される。白洲正子女史の純粋な自然への感性より、人工的な風景が出てきてしまうのは、知れるというものだ。

だが昨日、自宅近くの稲荷神社に行った。すると、近づくだけで気持ちが穏やかになっていった。これまでそんなことを感じたことはなかったのに…。



そういえば瑠璃さんに訊かれた。「郷さん、座右の銘ってあります?

おりてこい、ことば」だと答えると「降りてくるってやっぱり“あれ”ですね」と言われた。そうなのだろうか。そうかもしれない。「ことば」はこう置きかえられるかもしれない。

おりてこい、神さま。

自分らしさをとりもどすために「あれ」に降りてきてほしい。力が抜いて良い文を書きたい。読んだ人をたおやかにしたい、ひたむきにしたい、走らせたい。今はそう思えるだが…待てよ。あそこにも「あれ」はある。

好きな女性の胸のそこ、おっぱいにも「あれ」がある

うずめてみればわかる、とまあ邪念だらけなので(笑)、神さまもぼくの上におりるのをためらうのである。

|

« 忘れ物の一生 | トップページ | 光浦靖子の手づくりをチクチク分析する »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/158074/46250160

この記事へのトラックバック一覧です: 私の中のあれを探して:

« 忘れ物の一生 | トップページ | 光浦靖子の手づくりをチクチク分析する »