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2012年7月24日 (火)

自分我から自分和へ

ぼくは「自分が」になったときモヤモヤする。心が狭くなっている。ねたみや嫉妬がでている。気がつくと文章も「論」を書いている。エエイぼくらしくないぞ。

そんなときはひとっ風呂浴びるか、まだその時間じゃなければ神社にお参りする。「心に平静さをください」とお祈りして、木々をじっと見上げて深呼吸。すると不思議に気持ちが落ち着いてくる。

「自分が」が小さくなり「自分は」になってゆく感じ。

「が」と「は」のたった一文字違いだが大違い。それを教えてくれたのは寺社ガール1号の平岡理枝さんである。「どうして自分認められないのか」と「どうして自分認められないのか」はちがう。自我が出るから苦しいのよ、と彼女は言う。

「自 分が」と思うと「君にはぼくの文はわからないよ」とスネて自分を苦しめる。「自分は」と思えば「なぜわかってくれないんだろう?」「どう書けばわかってく れるんだろう?」と心を開ける。前向きにチェンジできる。「が」は自分も他人も苦しめる。「は」は自分もラクになり、他人もラクにする。

「が」が「我」なら、「は」は「和」である。自分我、自分和と書いてみよう。我はゴリゴリ進み、和はおだかやに包む。

外国特派員協会で会見にのぞんだ尖閣諸島の地権者の親族、栗原弘行さんは予想外に「和」だった。

「皆さんは見識のあるジャーナリストの方々だと思いますから、戦争に持って行くような報道の仕方は逆に控えていただければ有難いです」
「日本も含め、周辺諸国が東シナ海の豊富な水産資源をうまく活用するためにも、国内外でしっかり定着させてほしい」引用元=blogos

東 京都には「国が買わないならオレが買う」という我が見える。国には「国民が言うから態度を決めた」と戯画調な我が見える。その我にはブンブン虫がついて 「蛾」になっている。うなって島国、いや都上空を飛びかっている。一方島の所有者は大きな視点をもっている。「島嶼(とうしょ)経済の視点から見なさい」 と和の視点が清々しい。

島はちっちゃいのに、本土より大きな視点を持てるのにはワケがある。

ひとつ。島があれば四方に顔がちがう海がある。日本なら日本海、太平洋、オホーツク海、東シナ海。みんなちがう顔を持っている。恵みもあれば厳しさもある。風光明媚もあれば狂瀾怒濤もある。四海に育てられているんだ、いろんな意見に育てられているんだという気持ちになる。

ふたつ。島は海で分かれた国と国とつなぐ役目もある。島をつたってゆけば隣の国に行きつく。モーゼのように海を分てることができれば、海の底では隣国とつながっているのが見える。底では違いはないだろう?という気持ちになる。

Jibunwa

深呼吸を忘れると「我」が出てくるぼくも島国を背負ってる。ウチへウチへ向かう思考グセがある。「自分は四海に育てられている」「自分は誰とも底でつながっている」そう思おう。

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