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2012年8月13日 (月)

ぼくの終戦記念日スペシャル

ぼくとmakikoさんが講師を務めるベトナム人留学生就活支援講座、中断期間も入れればもう1年になる。内容はベトナムと日本の企業や事業の事例テーマ、一分間スピーチなど「語らせること」に力点を置く。改善の要望をもらうひとつが「ベトナム・日本交流史」である。

歴史をひも解けば、阿倍仲麻呂秀吉の時代のベトナム象ホイアンの日本人町などが、両国交流の代表的事例だが、それじゃあ誰も興味をもってくれない。何世紀も前の逸話に興味を持てと言われても…。講師の力量もさることながら、テーマと掘り下げ次第である。

そこで明後日8月15日は“終戦記念日スペシャル”として、2つ話題をそろえた。まず「南洋学院」である。

【サイゴンの南洋学院】

3年未満の運営を経て(1945年)南洋学院が閉校した。一期生30名、二期生30名と三期生52名は第二祖国サイゴン(現ホーチミン市)で青年時代を送った。引用元=南学日本語クラス同窓会(画像も)

1942 年、日本の外務省・文部省が共同で公費の日本人学校をベトナム・サイゴンに設立した。3年制の全寮制学校で、農業や経済など現地事情を含めて教え、指導的 人材を養成する目的であった。要は占領地での文官養成だろう。渡航費や教科書・食費などはすべて日本側が支給。講座が興味深い。

安南(ベトナム)語、仏語、仏印経済、法律、経済地理、簿記などオールラウンド。“熱帯衛生”という実利教育もあった。戦局の悪化で戦争に狩り出されたり、敗戦後は別の学校へ転校。そのまま残った日本人もいたという。3期と半分でわずか100数十名の同窓会が、まだあるという。過ちの多い日本だったが、教育への熱意はさすがだった。

もうひとつは暗い過去だ。

【ハノイの餓死者】
1941年以降、ベトナムは日本とフランスが共同で占領していたが、戦局の悪化で日本軍はフランスをおっぱらった。当時、ベトナムでは北部を中心に飢饉が 起きていた。米の買い付けをして住民に米が行き渡らない。さらにベトナム人に田畑ではなく綿やジュート栽培を強制していたためと言われる。

深刻な食糧不足でハノイを中心に200万人の餓死者が出た。当時のベトナム人口の1/10。南洋学院で学んだ者が“善き統治者”として振る舞うーそういう時代が来ればよかったかもしれないが、現実には日本の軍部や機関は多数の人殺しをした。直接的ではないせよ、重大な責任があった。

暗い過去から60数年が経ち、今ベトナムの若者に感じるのは、彼らの頭の良さ、ひたむきさ、目の輝きである。先々週の講義で始めての男子がいた。大学3年生。日本語も上手だ。講義後にホームで一緒になり、偶然住む家がぼくと近い。じゃあ一緒に、と言うと、

「これからバイトなんです」
「これからって…もう夜だぜ」
「11時から朝6時までコンビニで働いて、それから学校です」
「いつ寝るんだ?」

彼はへへへ…と笑った。こんな勤労学生(今や死語だ)は日本から消えた。どおりで国が発展するわけである。家族は過去の戦争や、つらかった独裁時代を背負っている。それでも恨みごとひとつ言わず、さわやかな学ぶ姿勢がある。

いろんな意味で言いにくい、戦争の謝罪をする代わりに、せめてアジアの若者のためにできることをやろう。それが世代を越えてできる償いだと思う。

彼らに比べると、「竹島メッセージ」を掲げた我が隣国のサッカー選手は低劣である。プレーは一流でも精神修養はゼロだ。恵まれた境遇に応える義務を忘れている。

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