ひねるか、ひねらないか、それが問題(かな?)
「パンケーキにトルティーヤって、神田じゃなくて原宿ぽいですね」
昨夜、神田須田町2丁目町内会のお祭りで食べ物を販売したとき、主催者にこう言われた。そうかなあ…それは言い過ぎだけど、たしかに下町ぽくはない。だって他の店はおでんに焼きそば、フランクフルト。下町ぽいというか、万人ウケというか。
一方ぼくらは気取った品?である。「トルティーヤって何?」と訊く人もいた。フランクフルトをトルティーヤでぐるっと巻くんですよ。パンケーキは粉をふってパンダにした。単純じゃないね。回りくどいかな。そのせいか売れ行きを心配してくれて、主催者の方はメガホンで何度もPRしてくれた。
でもね、cherryさんとぼくでは、焼きそばやフランクフルトは「絶対にない」。単純すぎて工夫がなさすぎ。ぼくらなりに「ひねりたい」のだ。フツーのパンケーキでいいのに、わざわざパンダのテンプレートを作って、おもしろがりたい。
それで気づいた。世の中には2つの性格がある。「ひねる人」と「ひねらない人」である。ベタなのがイヤか、ベタでいいと思うか。ぼくらは前者である。
ここには重要なポイントがある。
世の中の企画は一筋縄では通らない。ひねりの無い企画は通るわけもない。ひねらないとウケない。一方「ひねりすぎ」はわからない。大衆にはひねりは伝わりにくいのだ。トルティーヤを売りやすくするため、途中でサンプルを作ったり、丸めて温めたり、<ひねりを弱める>販売改善もした。
ひねりが伝われば一気に広がって「仕掛人」と呼ばれ、伝わらないと「ザンネン」と言われる。企画者も編集者もおよそアイデアで悩む人は「ひねり過ぎ」と「ひねりなさ過ぎ」の間で戦うのだ。
理想的なのは「ひねりがあってスッと抜けている」。ムツカシイ思考も表現が、分かりやすさに抜けること。
たとえば1986年から続いている漫画『ぼのぼの』。絵本にも使われるキャラクターの創造者が、エログロ漫画家だったことをみんな知らない。暗い漫画家だったのだ。漫画家いがらしみきおの根底には人間のエログロがある。だがそのエログロを、ほのぼの曲線のラッコや「いじめる?」というシマリスくんで包んだとき、ヒットが生まれた。なにしろ「いじめる?」って、カワイイより「悲惨なこと」でしょう?
ひねりやベタを超えて、ブラックなものを隠し、シンプルな万人ウケを創造できたとき、ヒットが生まれる。漫画に限らず、テレビも映画も、物語に限らずビジネスでも同じだ。
さてぼくらは来年もパン(ダ)ケーキとソーセージ・トルティーヤを焼くのだろうか?パン(ダ)のひねりはいいと思うけれど、“メキシカン・ドッグ”なんてベタなネーミングはしたくないねえ。
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